2011/09/12

中秋の名月とか。自己主張とか。


今夜は中秋の名月。という晩なのであります。

家内がお友達にもらったという
お月見団子やススキをリビングに飾ってくれましたんですが

自分が子供のころは、十五夜の晩には
地域の子供を集めての大相撲大会が催されたりしていたことを思い出したり。
なんで相撲だったのかは、今となってはわからないけれど。



ま、その名月ってのは、今夜の話ですもんで一旦おいといて


昨晩は・・同時多発テロ攻撃があった日。

そしてそれも10年経過した時ということで
アメリカでは大掛かりな記念式典が行われ、そのWeb動画中継を見ながら

セカンドライフ内での、メモリアルプレイスを訪ね
追悼のベルの音と共に
多くの人達と黙祷をささげたりしていたのですが



去年まではGround 0を具現化させた
セレモニープレイスがあったんだけど
今年は残念ながら見当たらず、この場所にみんな集まっていました。


10時間ほどニコ動の生放送は続いてて
それを見ながら思ったことは

遺族の方々からしてみたら、非常に不謹慎で失礼な考え方になるでしょうが

あのように332人もの遺族の方々を招待し
ひとりひとりのメッセージと共に
被害者の名前を読み上げるなどの式典を催し
大々的にメディアでも取り上げるということは
非常に効果の高い政治的パフォーマンスであるな、と言うこと。

ずっと見ていた人は、少なからず、そのような気持ちになったのではないかと。


日本も広島と長崎に原爆を投下された国。

明らかに、人災、戦争の被害だったそれらが、ここまで大々的に取り上げたことがあるのか?

国を挙げて

天皇陛下や、首相、主要の政治家などが参列し
海外メディアに向けて、世界平和を訴えるなり
言葉悪くするならば『ひどい目にあった国』として大いなるパフォーマンスを
これくらいの規模でやったことはあるのか?

靖国神社参拝問題とか言うて
日本人ではないが如くの思想を持った政治家の内乱みたいな
そんなおかしなことをしてるのは、うちの国だけなんじゃないのか?


戦争に負ける、ということのことの重大さとか、捉え方が
自分は普通じゃないところもあるのかもしれないから
はっきりしたことは言えないし、そこら辺は良くわからないのだけれども

自分たちがされた攻撃、テロ行為による惨事を
大いに思うがままに嘆き、悲しむ姿を配信すると言うことは
いろんな面において、大事なことであり、自然なことでもあると思う。

戦争の中で行われた行為であったけども
ある種の正義として(アメリカ側的には)行われた行為でもあったのかもしれないけども
我々は、原爆を落とされた被害国という見方、捉え方をして
もっともっと大いに嘆き悲しんでみせたっていいのではないだろうか?


現に、韓国や中国の皆さんなどのいい分はいつも
戦争の時に、日本から受けた仕打ちのひどさ。みたいなとこだし
日本を叩く時も、逐一、その時のことを持ちだすのであって

要はアメリカも、アラブ諸国のテロ行為を決して許さない姿勢で
それをいかなる理由も許すまじ的な勢いでもって
徹底的に否定、拒否、批判、非難をしているわけです。


なんで日本は、そういうことをしないのだろう?


そこが、なんとなくわかってしまって。だって・・・


もしも自分が個人的に、意味のわからない攻撃を受けて大打撃を受けても
たぶん、このようなことはしないのに違いないから。

もしかしたら、それが大和魂なのかもしれないし
そういうのって見苦しくね?みたいなとこもあったりだからなのだけど


でも・・・そうやってると、すごくつけ込まれるんです。

そして、悪い子がのさばる。
悪い子の、悪い行為が、実質的に許されて通ってっちゃう。

そしてその度に、なんでなんで・・・!!って歯ぎしりする。
憤りに言葉をなくして空を仰ぐ羽目になる。


なんてこの世は不公平なんだ!




セカンドライフをやるようになって
日本人以外の方々との触れ合いも持てるようになって
これまでに、良いこともあれば悪いこともあったけど
そのお国柄による思考、言動のギャップの大きさにびっくりすることも多くて

それが好ましい好ましくないに関わらず

外国の皆さんは、やはりとても自己主張がうまいです。
躊躇なく、何の懸念も持たず、素直に、まんま自己を主張します。

時にはそれが、酷く見苦しく映ったり
非常に厚かましく見えて、いやだいやだ・・・なんて思ったりもするけど


昨日のセレモニーをずっと見てて
つくづく思ったことには、素直っていいな。ということ。


延々と続く、遺族から被害者へのメッセージ
『愛しています、寂しいです、また会いたいです、決して忘れません』


さっきボクは意地悪に
大いなる政治的パフォーマンス、なんていういい方をしたけれど
そして、確かにそういう風にも見えたんだけども

この、素直な遺族からのメッセージは
こんな言うのは妥当ではないかもだけど、素晴らしいな、と心から思った。

素直に、辛かった、苦しんだ、怖かった、酷いと思った。ということを
きちんと口にして、態度に出してもよいのだと思った。
辛い辛いと、涙を流してもよいのだ、と思った。

それは、何も恥ずかしいことでもなくて、見苦しいことでもなくて
そう思ったことを、そのまま出しているだけ、むしろ自然なことなのだ。と思った。


一方、武士は食わねど高楊枝、というのがあって

自分もコレを信条の一つとしていて

それでも結構、アレコレ弱み、弱音も吐いて見せているようで
ホントのホントの、髄の髄の辛さや弱い部分は
やはり隠して隠して、隠しきっていて、その上で平気なふりをしたり
既にとっくに立ち直ったふりなどしたりする。

これはある意味かっこいい。かもしれない。
またある意味これをやるからこそ、自己を保てるってのもあるし。


でもなんか、違うのかもな、と、思った。


もっとストレートに自分を表現し、伝えようとするという姿勢は
その伝えようとしていることがどうあれ
ちっとも悪いことではないんだな、と、しみじみと思った。

お天道様は見てる。というのはあれど

お天道様のさばき?が下るまで時間かかるし
そのパワーよりも遥かに強い悪いもの、てのも実際あるし
どうにも止まらないもの、てのもあるからね。残念ながら。

憎まれっ子世にはばかる。という言葉の如く。


だから、もっと素直に被害者は表に配信したっていいんだ。たぶん。
それはもちろん諸刃の刃だから
自分も見下げられる結果になったり、いろいろある場合もあるだろうけど

苦汁を飲んで、涙を飲んで、泣き寝入りするばかりが能じゃないはずだよね。

そう見せかけといて、忘れたころにしてやったり!とかいうのもあるにはあるけどさ。


なんだかんだ言うて、アメリカは、いろんな意味でやっぱ強いな。とか思いつつ。

No more War ! ですよ。やはりこれに尽きる。



しかし。それだのに。

facebookで『戦争ゲーム』という類のアプリゲームをやってる自分なんだけど
ゲームであっても基本が戦争ゲームであるってことで
何やら勘違いなさってる人もいたり
都合良い解釈をして、それを盾に暴れまわってなさる人もいたりで

それらに触れる度にうんざりしたりもするんだけど

なんとなく

戦争になった、とか、戦争をしても良いという場におかれた
人間の思考の流れや、動きみたいなものが見える気がして
汚いものも見るけれど、そゆ時は、非常にウザいが、なかなかにある意味面白く。

北朝鮮みたいな人もおるのよw 日本人にも外国の人にもねw

自分の意見が正しいと言いきって曲がる隙もないような人とか
戦争のゲームなんだから、戦いを挑んで当たり前でしょ~?とか

ゲームだからねえ。楽しみ方は人それぞれなんでいいんだけど

ああいう類の人が
捕虜となってる敵地の人なんかに『戦争中なんで。敵なんで。』みたいな理論を盾に
余分な悪さをしたり、無慈悲な行為をしたりして

それが南京大虐殺だのなんだののことになったり
未だにずっと、なんだか頭の上がらないことになったりしてるんだな~とか。
これは勝手な憶測すぎですけど。

敵である前に、同じ人間だ。てのを忘れてちゃ話にならんのにね。と思うんだけど。


なにはともあれ

自然と調和し、受け入れ
自然そのもの、時間と季節の流れそのものを
存分に楽しむことで生きてきた日本人らしく

今夜は空を見上げながら
セカンドライフの中でも、支度などして

中秋の名月を楽しみつつ
実現にはなんだか遠そうな、世界平和を祈ったりしようじゃないの。


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